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【ART REVIEW vol.1】 美を探求する姿勢 村山悟郎個展「多の絵画」レビュー

 文=会田大也(ミュージアムエデュケーター)

 アート作品を楽しむ方法は、特に決まったスタイルが固定しているわけでもないし、例えば作品が「分かる」ということがある種の幻想であることは、ミュージアム・エデュケーターを名乗っている私自身、様々な場所で述べている。なので今回の展覧会についても、何の前提知識も無く、単に目の前の絵画の筆致や色の調和といった視覚的な愉悦を楽しんでいただくこともできるはずだ。事実、作品たちはいくら眺めていても飽きない美しさを湛えている。と言いつつも、村山悟郎「多の絵画」という個展は、楽しむためには多少の前口上を述べておくことに意味がある展覧会だと宣言することもできるだろう。その作品のタイトルに込められたキーワードを読み解く事でも、より踏み込んだ鑑賞の手掛かりは掴めるはずだ。

 本稿では、会場に入って目に見える展示作品の部分から話を進めていくのではなく、絵に描かれていない背景にある考え方から語り始めてみようと思う。こうした語り口は場合によってはアートを見慣れていない人々を不安に陥れたり、または「アートってやっぱり知識がないと見れないものなのね」と身構えさせてしまうリスクもあるが、それでもここでは敢えて背景の考え方を説明してみたい。通常「アートの知識がないと楽しめない」という台詞が鑑賞者の口をついて出る理由は、数多くのアート作品が”正統的な”西洋美術史に関する文脈の上に成り立っているという事実があるためだ。過去の長い歴史において多くの先人たちが各々の価値観に基づき美、そして表現を追求し、新たな手法や主義を究めてきた。それが美術史として歴史化されてきた事実がある。多かれ少なかれアーティストというのは、自分がこれまで全く新しい表現を追求しているという自負のもと制作や発表を行う。だから、事実として「あなたの作品のコンセプトは、過去の○○というアーティストが既に発表していることと同じですね」と言われてしまうことは最も避けるべき事態である。自分が過去の作品をよく研究もせず「我こそが初めて挑んだ表現なり」と発表したうえで、それを上のように指摘されてしまうことは、何としても避けなければならない事態であるのだ。必然的にアーティストは、どうしても先行する作品を調べるということを避けることが出来ない。専門の批評家はこれらの文脈を元に多くの批評を書くことになる。こうした事態はある種の閉塞性も産み、西洋美術史の系譜に紐づいた仕事をしている人たち、つまりアーティストやキュレーター、ギャラリスト、また批評家たち自身もこれらの閉塞性に気がついている。その証拠に保守本流の美術史をいかに相対化していくかという活動も数多く見られるようになってきている(1)
知識を前提とする鑑賞が”正しい”鑑賞となってしまえば、そこから来る閉塞性によって、結果として鑑賞を苦手と感じる鑑賞者を増やすことを加速させてしまうだろう。筆者はそうしたことに抗う鑑賞の方法を普段の仕事として追求しているが、ことの詳細は別の機会に述べられたらと思う。

 さて、本稿においてはこうしたアートの本流が西洋美術史であるのか?という話題からはちょっと脇道に逸れていかなければならない。というのは、そうした美術の歴史とはまた異なる部分で、本展覧会に提出されている作品の背景には、もう一つ別の知識体系が存在するためだ。それは、オートポイエーシスのことである。耳慣れない人のために、まずはオートポイエーシスとは何かという話をクリアしておこう。三省堂の「大辞林」による解説では、「オートポイエーシス【autopoiesis】:チリの生理学者マツラーナとバレラによって提唱された、生命システムを特徴づける概念。自己生産を意味し、システムの構成要素を再生産するメカニズムをさす」とある。およそ生物一般として認識されているものはこうしたメカニズムを持っているだろう。村山の説明によれば「オートポイエーシスはシステムの自己組織化を構想していて、細胞膜の形成運動のような、要素が反応し合って自己と呼びうるような境界形成が維持される(運動することでシステムが立ち上がってくる)産出ネットワーク」として考えられているとのこと。20世紀の科学にありがちな対象を小分けに分割して理解していくアプローチとは異なり、一つの系(システム)として全体的に対象を捉えようとする視点が特徴的である。村山の作品にはこのオートポイエーシスの考え方が強く反映されている。オートポイエーシスにまつわる考え方や用語は様々あり、その考え方を理解するためには多岐に渡る広範な議論を一つ一つ消化していかなければならないのだが、ここでは村山の個展を読み解くのに必要と思われるいくつかの考え方、とくに作品タイトルとして用いられている用語を紹介していくこととする。

 

ペンローズタイル

 物理学者ロジャー・ペンローズにちなんだタイルの配置の名称で、その特徴は2種類のタイルで構成されていることと、非周期的なパタンが描かれることである。矩形や正多角形で構成されるタイルには周期的なパタンが現れるが、ペンローズタイルはそうした単純な周期性は見られない。場合によっては円環状にみえるようなパタンを描くようにも見え、一般的なタイル面が幾何学的な周期性を見せるのに比べて、より有機的な面を描く。今回の展示で用いられているのは、「カイト」と「ダーツ」と呼称される2種類の形を元にしたタイル配置であり、さらに通常は一つ一つの形の頂点同士が接する配置を用いるが、この作品では頂点同士ではなく辺の途中に頂点が置かれるという、配置の原則をすこし崩した並べ方も部分的に適用されている。作品の中では、この隣り合ったタイルが接している辺の途中、一点で筆致が繋がるようなルールで絵が描かれている。それはまるで隣り合った電子基盤同士が、コネクター=接点によって接続し全体としての機能を担保している様子を思い起こさせる。

 

カップリング

 異なるシステムの中で振る舞っている、それぞれ独立しているように見える系統同士がもう片方の系統へ影響を与える状況、または結果としてその振る舞いの行く末を決定しているような関係性をカップリングと呼ぶ。作品の中では支持体である木材の木(杢)目と、その上に描かれている筆致との関係を表していると思われる。木目というのはご存知の通り樹木の年輪に由来し、年輪は樹木の育った土地の季節による温度変化によって樹木本体の成長速度が変化することで刻まれていく。たまたま切り取られた切り口に応じて表面に現れてきている紋様であり、枝分かれせず一筆書きで表現できる。またこの作品における筆致の形状は木目に影響されているとも言えるが、本来カンバスというのは絵画を支持する存在であり、描かれる内容とは関係がない。今回描かれている無数の線分の色は以降の段で説明するセルオートマトンのルールに従って選択されている。ルールが一貫していさえすれば形状はどんな形であっても、システムそのものは成立しているとも言え、そしてルール自体は木目の形状となんら関係なく、次に描かれる線分の色を決定する。

 

セルオートマトン

 オートマトン(自動機械)とは、自動的に処理を行う機械、つまりオートメーションで動作する機構システム全般を指す言葉だが、その概念の範疇には、数学的なモデルのように物理的実態を持たない、つまりコンピュータの中で駆動しているプログラムなども含まれる。ここにセルという接頭語が入ってセルオートマトンとなると、主に計算機科学・コンピューターサイエンスの分野において、細胞(Cell)のように並ぶ無数のオートマトンが集合して群として振る舞ったり、全体の様相を形作るような様子を研究する分野の名称として用いられる。計算を素早く正確にこなすことができるコンピューターの登場以降、この研究分野が大きく発展した。応用例として、経済学や物理学などの分野において、集団や群で動作する集合した対象の振舞いを理解するための研究であったり、生物学の分野で生物の体表に現れる模様の発生過程を探るといった研究などが挙げられる。

 

ネイバーエイト

 この用語は、セルオートマトンの分野で用いられるネイバーフッド(=近傍)という用語を前提としている。2次元平面グリッド(つまり正方形がタイル状に並んでいる状態)に配置されるセルのうち3×3の9つのセルに着目した時、中心のセルを取り囲む8つのセルのことをネイバーエイトと呼称する。セルオートマトン研究の一ジャンルである「ライフゲーム」では、時間ごとにセルの色を変化させその全体の様子を観察するが、変化の条件を決めるルールとして、周囲の4つまたは8つのセルを参照する場合(2)がある。今回はそのうち8つのセル、つまりネイバーエイトが参照される計算形式をモデルとしているようだ。周囲8つのセルから、中心のセルに隣接する辺の一点と交わるように筆致が描かれており、その4辺それぞれの1点ずつへ接続できるよう筆を走らせている。中心に来るべきセルに描かれたドローイングとして3つの異なる図柄のドローイングが展示されているが、ルールとしてはいずれも等価に成立しており、しかし同時に、人間の目には全く別の絵柄として認知される。
 


展覧会のレビュー

 〈絵画の双子I〉2021、パネルに和紙、アクリリック、鉄系顔料、90×120cm

 以上、用語の長い説明の後になってしまい順序が逆になるが、最後に展覧会全体のレビューを書き進めてみたい。まず会場に入って右手の壁に大きく掲げられている作品が、「絵画の双子 I」という作品である。紫、赤、橙、黄、緑、青、黒の7色の鉄系顔料を用いて描かれた2つの作品は、どちらとも似た筆致が刻まれており、その表面的な印象は似通っている。しかし良く見てみるとかなり異なる描かれ方をしている部分もあり、何か二つのカンバスに関係性があるのだろうと想像させられる。この作品については、会場内に置かれた資料に、どのような手順で描かれたかが経過写真として示されている。これを見ると作品はある程度の単位ごとに左右の作品が同時進行で描かれていたことが分かる。「取り得る選択肢」と語った本人の言葉を引用すれば、絵というのはそもそも、描き進める際に筆を運ぶ方向や強さなどいくつかある可能性の中から、取り得る選択肢を作家が選び取っていった記録であるという捉え方が成立する。そうなると、ある過程まで進んだ絵画には、Aというルートを辿る手順と、Bというルートを辿る手順が存在し、結果として選ばれた方が一つの作品となるのだが、実は選ばれなかった方にも完成に至る可能性があった、ということが言えてしまう。この作品は、そうしたあり得たかも知れない作品の可能性のもう一つの姿を同時に現出させたものと言えよう。 

〈ペンローズタイリングドローイング〉2021、パネルに和紙、アクリリック、チタン系顔料、長辺30cm 全体サイズ可変(H200×W170cm)

 次に目に入るのは「絵画の双子 I」の対面の壁に掲げられている「ペンローズタイリングドローイング」である。ペンローズタイルの一つ一つのタイルの中にドローイングが描かれており、そのタイルが持つ4つの辺について、筆致が一点のみタイルの際まで描かれている。隣り合ったタイルの同じ点には、同様に筆致が一点のみ際まで描かれる。集合したタイルの中央辺りは1個のタイルだけ抜き出されており、その抜き出されたタイルは、集合の右側に独立して展示されている。形と方向が一致しているので、この中央のタイルが抜き出されて右に移動されたことが想像できる。またこの周囲に新たなタイルを置き、同じルールで無限に平面を埋め尽くしていくこともイメージできる。同じルールで繰り返される個々の単位と、その隣り合う単位同士に接続の特徴が埋め込まれた本作から、筆者は脳細胞の顕微鏡写真、そして無数に拡がっていく神経ネットワークを想起した。

〈ドローイング – カップリング[杢目とセルオートマトン]〉2021、欅[日本家屋床間古材]にアクリリック、クロム系顔料、H1042×W577mm

〈ドローイング – カップリング[杢目とセルオートマトン]〉細部

 会場を奥に進むと、左右の壁に同じタイトルの2作品「ドローイング – カップリング – 杢目とセルオートマトン -」が掲げられている。日本家屋で用いられていた欅の古材を支持体として3色の顔料で描かれた作品である。先の用語説明の中でも触れたが、この作品を村山が描いていく作業過程では、セルオートマトンのルールが適用されている。筆致は杢目を胯ぐ際に色の変わっている所と変わっていない所が見つかる。3色の色は交わらず、明確に描き分けられている。全体の描きはじめを上流、描き終わりを下流と呼ぶなら、上流から杢目を胯ぐ際に2本の線がやってきて、下流に2本の線分を描き出すルールになっている。また、下流に描き出す2本の線分の色は必ず同じ色である。下流につながる線分の色は、上流からどの色がやってきたのかという条件によって決定される。このルールが厳格に適用されて全体が描かれている。例えば、上流からやって来る線分の色が青と黄色であれば下流の2本は必ず紫になるし、黄色と黄色であれば必ずその下は黄色になるといった具合だ。先にも述べたが、このルールそのものは形状とは関係なく平面を構成できる完全に独立したシステムだが、この作品では筆致は杢目の形状によって制限を受け、その独特で有機的な形態を見せる。
 

〈ネイバーエイトドローイング〉2021、水彩紙にアクリリック、チタン系顔料、各22×22cm

 会場の最奥に掲げられているのは「ネイバーエイトドローイング」である。壁の左側には正方形のタイルが3×3マスの配置で置かれ、中央の部分は空いている。その右側にある壁面、つまり入口から見て正面にあたる壁には、3つの単独の正方形が並べて掲げられている。ネイバーエイトの項でも述べたが、この3つのタイルというのは、周辺の8近傍のセルに接している辺の1点と繋がる点を持つ、しかし異なった絵柄のドローイングである。周辺の8セルが変わらないとしても、中央のセルにはここに示された3つの可能性があったし、もしかしたら他にも様々な可能性があるのかもしれない。いずれにしてもルールを逸脱していない一つのシステムの上に成り立つドローイングである。作品自体がシステムそのものを提示しているとも言えるし、しかし同時にこれらは絵画であるとも言えるのである。

おわりに

 私自身は芸術作品を鑑賞するにあたって、作品の外側にある文脈や背景といった情報というものが必ずしも必要だとは考えていない。情報が作品の鑑賞を味わい深いものにしてくれることは否定しないが、必ず必要な条件だとまでは言えないし、鑑賞者の抱く作品への印象や、作品解釈に不正解は無い。また、作品が作品として成立するためにはいくつかの条件があるが、やはり絵画やドローイングというものは視覚で判断される芸術のジャンルである以上、その見た目には何かしらの価値を持つはずなのではないかと考えている。つまり例えばそれが「美しい」とか「精緻である」とか「圧倒的迫力である」というような評価を得る何かしらの価値を擁するのではないかと考えるのである。ただし、もし美しいということを価値とするにしても、何をもってしてその絵画を美しいとするかは、描くアーティストによっても異なるし、鑑賞者によっても異なる。ある鑑賞者にとっては美しいと評価できるものが、別の鑑賞者にとってはグロテスクだと感じられることもあるだろう。そうした差分は描き手と鑑賞者の間にも存在する。何をもって美しいとするべきか、を追求する姿勢が絵を描くという行為の根源的な欲望の一つなのだと考えることもできるだろう。

 村山悟郎というアーティストはこれまでもオートポイエーシスという自律的なシステムを孕む作品を生み出すことに挑んでいる。オートポイエーシスのシステムそのものが孕む美しさ(3)に囚われたかのように飽くなき挑戦を続けてきている。視覚的な美麗さではない、ロジカルでシステマチックな摂理の中に顕れる多様な可能性を持つ美というものを、美術史というある意味安易な手がかりを経由しない方法で、システムによって改めて絵画の中に還元させているとも言える。その美というものは、たとえばある時代においては視覚的な美と論理的な美に要素還元され、分断されてしまったかのようにも見えるのだが、元を辿れば同じルーツを持つ、統合的なものなのかもしれないと捉え直せば、これら作品制作を通した村山の挑戦は、ある意味最も真っ当な美の追求の姿勢だと考えることができるだろう。


(1)例えば、ドクメンタ14(2017)で「アテネから学ぶ」というテーマが選ばれたことにも象徴されるが、つまりヨーロッパ中心で形成されてきたアートの歴史を中心と思っていたのはヨーロッパを基盤としている人だけであり、それ以外の地域にはそれぞれの美術や文化の履歴=歴史が存在していた、という姿勢を打ち出すことで、”西洋美術史”を相対化する立場が目立ち始めた。ドクメンタ以前にも、例えばメディアアートの祭典である「アルスエレクトロニカ 2002」では「UNPULGGED」というテーマが設定され、当時インターネット未開の地であったアフリカなどエリアへの視線を呼び覚ました。現在はアール・ブリュットと呼ばれる活動がかつては「アウトサイダーアート」と呼ばれていたことなども、自分達が中心にいるという自覚がなければアウトサイダーという言葉が生まれてくるわけがないので象徴的である。歴史認識などにも顕著に顕れるが「何を中心とするのか」という議論には、常に覇権の綱引きが背後に見え隠れするものである。

(2)中心となるセルの周囲上下左右の4つを参照するモデルを、ジョン・フォン・ノイマンにちなんで、フォン・ノイマン ネイバーフッドと呼ぶ。さらに加えて、右上、左上、右下、左下の斜めの関係のセルも含めて参照するものをエドワード・F・ムーアにちなんでムーア ネイバーフッドと呼ぶ。

(3)人間は、見た目の美醜だけではなく、物理法則に従ったモノの動きや、数学的に記述可能な花弁の配置といった、いわば数学的または論理的な対象の中に「美しさ」を見いだすことがある。


【展覧会】村山悟郎|多の絵画   Paintings – Plurality

会期|2021年11月6日(土)- 12月19日(日)

開廊|水 – 日 14時  –  19時

休廊|月・火・祝

企画・会場|THE POOL

協力|TSCA

【関連イベント】 村山悟郎|多の絵画  ギャラリートーク

テーマ|「多の絵画」について

ゲスト|岩本史緒氏(キュレーター)

日時|2021年11月7日(日)15時~16時30分

会場|THE POOL


【著者紹介】

会田大也

(ミュージアムエデュケーター/山口情報芸術センター[YCAM]アーティスティックディレクター)

2003年開館当初より11年間、山口情報芸術センター(YCAM)の教育普及担当として、メディアリテラシー教育と美術教育の領域にまたがるオリジナルワークショップや教育コンテンツの開発と実施を担当する。2014年より東京大学大学院ソーシャルICTグローバル・クリエイティブ・リーダー[GCL]育成プログラム特任助教。あいちトリエンナーレ2019ラーニング・キュレーターを経て、2020年現在、YCAM学芸普及課長を務める。